2012年8月15日水曜日

終戦の日に(宇佐海軍航空隊のお話)


 大分県宇佐市にある「城井1号掩体壕史跡公園」は、かつてこの地にあった旧日本海軍・宇佐海軍航空隊(海軍航空隊宇佐基地)に係る戦史遺跡を宇佐市が買い取り、史跡公園として整備したものです。

 宇佐航空隊は元来、爆撃機・攻撃機の搭乗員の教育を行う訓練部隊でしたが、太平洋戦争末期の昭和20年には特別攻撃隊が編成され、154名の特攻隊員が出撃していきました。

 航空隊の滑走路があったところは、現在フラワーロードと呼ばれる市道になっていますが、その周囲には10基の掩体壕(飛行機を敵の攻撃から守るために造られた小さな格納庫)が残っています。

 隊員であった東條重道さんが戦友の思い出を綴った手記「野中繁男君を回想する」(なにわ会ニュース53号13頁 昭和60年9月掲載)によると、「20年の紀元節までは宇佐は桃源境だった」ようです。
 若い隊員たちは、それぞれに短い青春を謳歌したことがうかがわれます。毎週末日豊本線で湯の町別府に行き、決まって杉の井旅館に泊まったこと。亡き戦友の家に遊びに行き、息子の身代わりのように歓待されたこと。意中の女性について話したこと。

 しかし、のんなのどかな日々も「マルダイ部隊野中一家が駐機するに及んで空気は一変した」。マルダイ部隊とは、有人ミサイルともいえる特攻ロケット爆弾「桜花」を搭載する一式陸攻隊です。
 部隊長の野中五郎少佐は、二・二六事件の首謀者野中四郎大尉の実弟(前出の野中繁男中尉とは全く別人)でした。

 一式陸攻は、緒戦期に大活躍した双発の爆撃機ですが、図体が大きく鈍重で、長大な航続力と引き換えに防弾装備は極めて脆弱でもあったため、昼間攻撃では生還はおろか、敵艦に近づくことすら覚束ないのが実情でした。

 繊細でやさしい人柄であったと伝えられる野中少佐は、特攻に極めて批判的であったと言われていますが、暗くなりがちなムードを払拭するため、隊員たちの前では、任侠の大親分を気取って芝居がかった振る舞いをしていたそうです。部隊はいつしか、彼の名を冠し、「野中一家」と呼ばれるようになりました。

 昭和20年3月、出撃命令を受けた野中部隊は、米機動部隊に到達できぬまま敵艦載機に全機撃墜され、全滅しました。

 前出の東條さんの手記に戻ります。

「戦局日々急迫、3月1日第10航空隊に編入され、練習機をもってする特別攻撃隊が編成された。その第1回の編成が第1八幡護皇隊である。艦攻隊は全機をもって編成した。八幡とは宇佐神宮の八幡さんから、護皇は勿論皇室を護るという意味であった」。

「艦攻は3人乗りである。丁度7分咲きの吉野桜を背に挟み、八幡護皇隊と染抜いた白鉢巻も凛々しく正装して出撃命令を待っている。池田の小母さんも見送りにみえている。野中君とは目礼して十分意は通じた。「かかれ」の号令で愛機へ。そして淡々として次々に離陸、見事な編隊で宇佐空を飛び立っていった。操縦の乱れは全く見られない。何時もの訓練と同じように飛んで行った。私の胸にはジーンとするものが、いつまでも残っていた。俺もすぐ行くのだ、こんな風に見送られてと思いつつ。」

 その後、野中中尉は4月6日特攻出撃し、敵戦闘機と交戦、戦死されました。史跡公園の石碑に、彼のお名前を見つけることができます(下写真、上列の右から四人目)。



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