2012年8月9日木曜日

戦史遺跡と不動産鑑定士


 今日的な不動産鑑定評価の重要なテーマのひとつに、土壌汚染があります 。

 それゆえ不動産鑑定士は、対象物件の現況(植生、残置物その他)のみならず、周囲の状況、周辺地を含めた過去の利用状況(いわゆる地歴)を調査し、汚染が不動産の価格形成に影響を及ぼす可能性を判断するのが通常です。
 地歴を調べることは、歴史をひもとくことであり、しばしば太平洋戦争が残した様々な傷跡にも行きあたることとなります。

 大分県宇佐市にはいまだに旧陸軍省名義の字図混乱地域が残されたままですし、地元のお年寄りたちも知らない地下壕が張り巡らされているらしき基地跡もあります。中津市の田園地帯では、そこがかつて大手製鉄会社の大軍需工場があった場所だと知りました。熊本市では、図書館で地歴を調べるうち、沖縄戦の義烈空挺隊の発進基地が近くにあったとわかりました。
 そんなときは、わずか一瞬ですが、仕事を通じて当時に思いをはせる機会になります。

 ところで私には、戦史遺跡を見るたび、思いをあらたにすることがひとつだけあります。それは、『戦争体験から得られる知見は、ただ「ふたたび戦争の惨禍が起こることのないように」というだけではないはずである』、ということです。

 若いころ、幹事をつとめたある酒席で重役の方に乾杯のご発声をお願いした時の、その方のスピーチがいまでも印象に残っています。12月8日のことでした。

 『50年前の今日、日本海軍がハワイのパールハーバーを奇襲しました。ご存じの真珠湾攻撃です。功罪はどうあれ、その後の世界史を大きく変えた重大事件であったことは疑いありません。それを実行した搭乗員の平均年齢は21歳だったと聞きます。時代を動かすのはいつも若者です。私は、みなさん若い方々にそんな大きな期待を持っています。』

(写真は、宇佐市の城井1号掩体壕史跡公園=旧日本海軍の特攻隊基地跡です)


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