2013年9月4日水曜日

合元寺の赤壁(中津市寺町)

 いまやカーアイランド九州屈指の自動車工業集積地となった大分県中津市は、来年の大河ドラマ『軍師官兵衛』で盛り上がっており、まちのいたるところに『黒田官兵衛孝高』の幟が立っています。

 天正15年(1587年)九州を平定した豊臣秀吉は、側近の黒田孝高を豊前中津12万石に封じました。すぐれた軍略家である孝高を九州の抑えとする意図もあったでしょうが、あまりに頭の切れる彼を恐れた秀吉が中央から遠ざけたともいわれます。

 孝高が築いたとされる中津城は、中津川河口にいまも三角形の遺構を残しています。福沢通りを挟んでその南東方の寺町界隈は、城下町の風情が感じられる散策路が整備され、格好の観光スポットとなっています。今日は、その中ほどにある合元寺(ごうがんじ)を訪れました。


 じつは、このお寺には、中津城、黒田孝高あるいはその息子の黒田長政を語る時、決して触れないわけにはいかない「いきさつ」があるのです。

 中津城主となった孝高には、目の上のたんこぶともいえる人物がいました。豊前守護職の家柄で代々当地に勢力を張る城井谷城主の宇都宮鎮房(「信長の野望」では城井鎮房の名で登場します)です。
 秀吉が命じた伊予国への移封を鎮房が拒否したことから、事態は深刻化し、ついには鎮房が城井谷城に立てこもるまでになりました。
 孝高の息子長政は、城井谷城を攻撃しますが、なにぶん天然の要害であり、度々戦上手の鎮房に翻弄されます。

 最終的には和議を受け入れて中津城に赴いた鎮房でしたが、城内で謀殺され、合元寺にとどめ置かれた家来たちも皆殺しされたということです。

 合元寺境内の案内板には次のような記述があります。

 天正17年4月孝高が前領主宇都宮鎮房を謀略結婚により中津城内に誘致したときその従臣らが中津城を脱出してこの寺を拠点として奮戦し最後をとげた。
 以来門前の白壁は幾度塗り替えても血痕が絶えないので、ついに赤色に塗り替えられるようになった。当時の激戦の様子は現在も境内の大黒柱に刀の痕が点々と残されている。


 作家の井沢元彦さんは、『日本の歴史を理解するキーは、ケガレ思想と怨霊信仰だ』と述べ、その文脈で『神社の造営の中心人物を特定すれば、事件の黒幕が分かる』という趣旨の発言をしています。
 要するに『太宰府天満宮を建てた人が、菅原道真追放の張本人だ』というようなことです。ちなみに、宇都宮鎮房を祀る城井(きい)神社を建てたのは、黒田孝高(官兵衛)でした。

 しかし、本当はどうなのでしょう?以下は私の勝手な憶測です。

 秀吉に肥後54万国を与えられた佐々成政は、国人一揆がおこった責任を問われ切腹を命じられました。秀吉が鎮房に対して飽くまで強硬であったのは、じつは孝高を難しい立場に追い込み、ついには失政の責任を問うための策略であったとしたら…。





0 件のコメント:

コメントを投稿