2014年12月5日金曜日

岡城と薩摩兵の縁(その2)

 前回は、滑瀬からの攻撃に三度失敗した島津勢に、岡城主志賀親次から『滑瀬は足場が悪い。渡河容易な浅瀬をお教えするゆえ、岡城南西方の鬼ヶ城にて雌雄を決したい』との文が届いたところまで書きました。

 ⇒ 岡城と薩摩兵の縁(その1)を見る

 このとき、豊後侵攻を急ぐ島津義弘は、すでに配下の部将稲富新助に兵五千を託し、久住方面に転進していました。
 矢文を受け取った稲富新助は、城方の申し出神妙であると感じ、鬼ヶ城決戦に応じたようです。

 当日早朝、島津勢が鬼ヶ城川向かいの小渡牟礼(おどむれ)で待ち構えていると、岡城からの使者がやってきて、浅瀬を指し示しました。

 それ、と島津勢が渡河を開始すると、川を渡り切るのを待っていたかのように、銃弾が降り注いできました。志賀勢はひそかに鬼ヶ城の高台に鉄砲隊数百を潜ませていたのです。
 志賀勢は、総崩れとなった島津勢をなおも追撃、首級数百を挙げる大勝利をおさめました。
 前出の郷土史誌によると、このとき志賀親次自ら鬼ヶ城至近の魚住(うおずみ)まで出馬し、督戦したということです。

 安土桃山時代最強の武装集団である島津勢も、豊後竹田では全くいいところのないまま、攻略を断念するほかありませんでした。

 島津勢の岡城攻めのお話はここまでです。

 でも、薩摩兵と岡城の縁はまだまだ続きます。時代は変わり明治維新期、薩摩兵はふたたび豊後竹田へとやって来ました。
 そして、それは日露戦争での逸話で知られる広瀬武夫中佐の生い立ちにも深く関わることだったのです。 (つづく) 
                                              
参考サイト 岡城攻防戦


 
 


0 件のコメント:

コメントを投稿